On Heidegger's "Sein und Zeit"
Leonard Cohen (1934-2016)のYou want it darker の歌詞の最後では、Hineni, hineni, I'm ready, my Lord... で終わりますが、ヒネニはヘブライ語で「私はここにいる」を意味し、神が息子イサクを犠牲にするようにアブラハムに呼びかけたときの答えとのことです。こ れは、ロシュ・ハシャナの日に聖歌学者が唱える、神に宛てた準備と謙虚さの祈りの名前らしい。コーエンがなくなるまえに、病床の友人にあてた手紙の末尾に 「私も年をとり、からだがボロボロになる時期にきた。もうすぐあなたについてゆくと思う」と書いたというエピソードが知られています(出典:The Times of Israel )
「ハイデガーは、「存在論という傲慢な言葉」(カン トの表現)の意味を根本的に変質させてしま うという代価を払い、現存在の存在論的構造の中に実存的諸特性を刻み込む。この諸特性は、認 識(了解、さらには言語)を可能にする(いわば再洗礼を授けられ存在論的になった)超越論的 諸条件として記述され(「基礎的実存疇」とか「現存在の存在の基礎的様態」としても示され) ているから、同時に彼は、超越論的なものの存在論化を行なっていることになる。こうして彼は、 反対物どうしの混合を最も基本的なかたちで実現する。この混合のせいで、彼のことを、対立す る二つの立場のいずれに還元することもできなくなり、その立場を把握することができなくなる のである。この超越論的存在論が、認識する存在を非存在(つまり、時間化する行為、投企)と 定義し、存在と時間を同一視しながら歴史を存在論化して、超越論的なものの存在論化を完成さ せると、右述の混合は、言わば倍加される。有名な転回(Kehre) が行なわれ、『存在と時間』の 超越論的存在論および実存的分析論から距離が取られるという事態が、歴史の存在論化を経由し て、全く自然に否定的存在論へ至りえたのも、当然である。否定的存在論は、「存在とは何か」 を「存在とは現存在に現われるかぎりで何か」と同一視し、大文字の存在を顕現のプロセス(一 種の「創造的進化」か)として提示する。そして、このプロセスの実現は、このプロセスを存在 させる思考に依存する、つまり歴史性に身を委ね従うという「放下Gelassenheit 」に依存する、と されるのである」(ブルデュ 2000:104-105)
●『存在と時間』の構造
出典は"Ser y tiempo," .
★『存在と時間』のもともとの構造と目論見
+++++書かれた部分+++++木田 2000:4-5)
序論 存在への意味の問いの概要的提示
第1部 現存在を時間性にむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する
第1編 現存在の準備的な基礎分析
第2編 現存在と時間性
+++++書かれなかった部分+++++(木田 2000:5)
第3編 時間と存在
第2部 テンポラリテートの問題群を手引きとして存在論の歴史を現象学的に解体することの概要を示す
第1編 テンポラリテートの問題群の予備的段階としてのカントの図式機能論および時間論
第2編 デカルトの〈Cogito ergo sum〉の存在論的基礎と〈res cogitans〉の問題群への中世存在論の継承
第3編 古代存在論の現象的基盤とその限界の判定基準としてのアリストテレスの時間論
++
【解説】1927年のマルチン・ハイデガーの著作()。 「あらゆる存在了解内容一般を可能にする地平として時間を学的に解釈すること」を目的として書かれた(英訳は1962年)。ハイデガーの存在論でもっとも 有名なのは、存在的、存在論的の区別である。存在的とは、具体的な事物があるとかないとか、というものをめぐる議論であり、存在論的とは「〜がある」とい う時の「ある」とはどういうことかを議論するものである。このような存在論の基本的な問題は、もともとアリストテレスによって取り上げられ、ライプニッツ によって定義されたもので、quam(ラテン語で、文字通り「として」、あるいは「〜の能力において」)の研究であった。この問題へのアプローチにおいて、 ハイデガーは、アリストテレスとカントという、それぞれの哲学的立場が大きく異なる著者の伝統の間に自らを置いており、命題の論理の観点から存在の意味の 問題にアプローチしているわけではない。ハイデガーのアプローチには、理論的な知識は、人間個人と彼を取り巻く世界の実体(彼自身を含む)との間の最も基 本的でオリジナルな関係ではない、というテーゼが暗黙のうちに含まれている。1989年に「ナトルプ報告」と通称よばれている 『アリストテレスの現象学的解釈──解釈学的状況の提示』という 1923年の原稿が発見されて、古代ギリシャから現代にいたる存在論の系譜と、西洋哲学の 読み直し(=再解釈)をとして、構想でしかなかった『存在と時間』の第二部第三編であることが明らかになった。しかし、1927年の最初の出版から第6版 を重ねても上巻と書かれていたものが、1953年第7版では、その文字が削除されて、実質的に前半そのものが単著として完成とされた。同年『形而上学入 門』が書かれており、存在への問いは、継続されているとハイデガーは弁明するが、「存在一般の意味」の解明はなされなかったというのは、後年のハイデガー 研究者のコンセンサスである。
◎ハイデガー「存在と時間」基礎用語集(選択は、後藤嘉也『ハイデガー『存在と時間』』晃洋書房, 2011年)
明るむ場 |
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運命 |
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解釈学 |
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〈解釈学的〉循環 |
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解体 |
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カトリック |
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環境世界 |
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既在性 |
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基礎的存在論 |
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気遣い |
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客体存在 |
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共同運命 |
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決断 |
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現在化 |
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公共性、公共的 |
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国家社会主義ドイツ労働者党 |
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顧慮的気遣い |
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死 |
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実存カテゴリー |
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実存主義、実存哲学 |
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実存論的分析論 |
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瞬間、瞬視 |
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状況 |
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将来 |
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ずっと現前しつづける |
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生の存在論 |
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世界=内=存在 |
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先駆する決意性 |
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存在することの意味、存在意味 |
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存在することの真理、存在真理 |
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存在論上の差異、存在論的差異 |
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頽落 |
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脱自的な時間性 |
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誕生 |
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地平、地平的図式 |
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超越 |
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転回 |
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テンポラリテート |
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投企 |
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道具存在 |
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独我論 |
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ナチズム |
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ニヒリズム |
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配慮的気遣い |
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反復 |
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〈非がある存在〉 |
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被投性 |
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非本来性 |
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非本来的実存 |
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不安 |
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普遍的存在論 |
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忘却 |
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本来性 |
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本来的実存 |
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〈みんな〉 |
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有意義性 |
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無意義性 |
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良心 |
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歴史性 |
序論 存在への意味の問いの概要的提示【ハイデガーの序説】1- 8 ※これはマイケル・ゲルヴェンの解説区分
第1章 存在の問いの必然性、構造および優位性(1-4)
第2章 存在問題の開発における二重の課題 考究の方法および構図(5-8)
第1部 現存在を時間性にむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明 する
第1編 現存在の準備的な基礎分析
第1章 現存在の準備的分析の課題の提示(9-11)【実存 論的分析論1=世界】9-27
第2章 現存在の根本的構成としての世界=内=存在一般(12-13)
第3章 世界の世界性(14-24)【実存論的分析論2=了 解】25-38
第4章 共同存在と自己存在としての世界=内=存在、「世間」(25-27)
第5章 内=存在そのもの(28-38)
第6章 現存在の存在としての関心(39-44)【配慮・リ アリティ・真理】39-44
第2編 現存在と時間性(45)【死】45-53
第1章 現存在の可能的な全体存在と、死へ臨む存在(46-53)
第2章 本来的な存在可能の現存在的な臨証と、覚悟性(54-60)【本来的実存】54-60
第3章 現存在の本格的な全体存在可能と、関心の存在論的意味としての時間性(61-66)【時間】61-71
第4章 時間性と日常性(67-71)
第5章 時間性と歴史性(72-77)【歴史】72-83
第6章 時間性と、通俗的時間概念の根源としての内時性(78-83)
第3編 時間と存在《以下、刊 行されず》——ハイデガー『存在と時間』の構築 / 木田元編著、岩波書店 , 2000ならびに、後藤嘉也『ハイデガー『存在と時間』』晃洋書房、2011を参照。
第2部 存在論の歴史の現象学的解体
第1編 カントの時間論について
第2編 デカルトの「我あり」と「思う」について
第3編 アリストテレスの時間論について
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ハイデガー本人も言及し、かつ木田元『ハイデガー「存在と時間」の構築』(2000年)の再構成で著名であるが、ハイデガーのこの著作には、後 半(下巻)があったはずであるが、それは完成することもなく未完のまま終わった。その弁明と考察の続きは、本人は1953年刊の『形而上学入門』を参照せ よとまで言っている。
部や編(ゲルヴェンの解釈は1編=実存論的/第2編=存在論的)の構成もわかりにくくなっているために、ハイデガーのこの著作の解釈には、上巻 で書かれた、全84節いくつかにグルーピングして読解することをすすめてい るものが多い。
例えば、米国生まれのマイケル・ゲルヴェンは『注解』(1970)年において、冒頭の解説——『存在と時間』の概要と背景、を除き、全体で以下 の8章分に分けて、本書の意味の解明を試みようとしている。
ハイデッガーの序説 1-8節
実存論的分析1 世界 9-27節
実存論的分析2 了解 25-38節
配慮、リアリティー、真理 39-44節
死 45-53節
本来的実存 54-60節
時間 61-71節
歴史 73-83節
米国の
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年譜(ウィキペディア日本語による)
1889 9月26日 メスキルヒにてフリードリヒ・ハイデッガーとヨハンナの第一子として生まれる
1903 ハインリヒ・ズーゾ高等学校(Heinrich-Suso-Gymnasium入学
1906 フライブルクのベルトホルト高等学校(Berthold Gymnasium)でアビトゥーアの準備
1907 ギムナジウム最終年にコンラート・グレーバー博士から、フランツ・ブレンターノの1862年の学位論文「アリストテレスにおける存在 者の多様な意義について」を贈られ、影響を受ける
1909 ティジスのイエズス会修練士修練期用新入生宿舎に登録、すぐに除籍。フライブルク大学神学部に冬学期から入学
1913 7月26日、指導教官はアルトゥール・シュナイダー教授を主査とし、副査ハインリヒ・リッケルトのもと学位論文『心理学主義の判断論 ──論理学への批判的・積極的寄与』を提出し、最優秀(summa cum laude)の評価
1919 プロテスタントに改宗。戦争緊急学期から1923年の夏学期までの時期、ハイデッガーはフッサールの助手として勤めつつ、フライブル ク大学の教壇に立つ。
1922 論文『アリストテレスの現象学的解釈──解釈学的状況の提示』(ナトルプ報 告)
1923-28
1927 エドムント・フッサールによって創刊された『哲学および現象学研究のための 年報』の第8巻においてハイデガー『存在と時間』の初版を公刊。『現象学の根本 問題』(Die Grundprobleme der Phänomenologie)
1928 フッサールの後任としてフライブルク大学の教授に招聘され、就任
1929 4月、スイスのダボスで新カント派のエルンスト・カッシーラーとのダヴォス討論を行い、「神に存在論はない」「存在論を必要とするの は有限者だけである」と語った[152][153]。この討論にはルドルフ・カルナップも参加しており、ハイデッガーに全てを物理学的用語で表現する可能 性について話すとハイデッガーは賛同したという。
1929 『カントと形而上学の問題』(Kant und das Problem der
Metaphysik、1929年)『形而上学とは何か』("Was ist Metaphysik?"、1929年)
1932 ルドルフ・カルナップは「言語の論理的分析による形而上学の克
服」
[477]でハイデッガーの「形而上学とは何か」を批判し、形而上学は芸術の代用品にすぎず、形而上学者は「音楽的才能のない音楽家」でしかないと批判し
た
[478]。ハイデッガーは講義草稿でカルナップの哲学は「数学的科学性という見かけの下に伝統的な判断論を極端に平板化し、その根を失わせたもの」で、
「こうした種類の哲学が、ソ連の共産主義と内的にも外的にも関連しているのも、そしてアメリカにおいてその勝利を祝うことになるのも偶然ではない」と書い
ている
1933 4月21日、ハイデッガーはフライブルク大学総長に選出。ナチス入党。
1934 1934年4月23日の会議で総長辞任を伝える
1942 『存在と時間』第5版ではフッサールの献辞は削除される
1944 夏学期、ヘラクレイトス講義[287]。この講義のなかでハイデッガーは「ドイツ民族が西洋の歴史的な民族でありつづけるのか、それ ともそうでないのかどうかという、このことだけが決定を迫られているのではなくて、今は大地の人間が大地もろともに危険にさらされているのであり、しかも 人間自身によってそうなのである[288]」「この惑星は炎に包まれている。人間の本質は支離滅裂になっている。ドイツ人がドイツ的なものを見出し、保持 するということが想定されるとすれば、世界史的な熟慮が生まれるのはドイツ人からのみである[289]」と語った
1945 11月から12月にかけてフランス占領当局によってフライブルク大学において非ナチ化を行う純化委員会の査問を受ける。
1946 夏、フランス軍政当局はハイデッガーの無期限教職禁止令を指令。これは大学からの免職ではなく、研究教授としての在留を認めたもので もあった[5]。12月、バーデン州文部大臣から大学教職無期限停止令が下された
1949 11月から「ヨーロッパユダヤ文化再建委員会」のナチス略奪文化財の調査で訪欧していたハンナ・アーレントが、ヤスパースに会ったあ
と、1950年1月にフライブルクを訪問し、ハイデッガーと会った[328]。ハイデッガーはアーレントのホテルを訪れ、またハイデッガーの家では妻エル
フレーデと三人で会ったが、諍いとなった
1951 復職し、退官教授
1952 5月19日、ハンナ・アーレントは再びフライブルクを訪問し、ハイデッガーと会った[335]。6月6日の夫への手紙でハイデッガー の講義はすばらしいものであったが、その妻とは悶着をおこし、ハイデッガーの5万ページの未発表原稿は「本来ならそれを彼女(妻エルフレーデ)が数年のあ いだにスムーズにタイプすることができていたはず」なのにしなかった、ハイデッガーが頼れるのは弟だけと報告している
1953 『形而上学入門』がマックス・ニーマイヤー書店より再刊される。当時24歳の学生ユルゲン・ハーバーマスは「『存在と時間』の魅力に 取り憑かれていただけに、文体の隅々までファシズム的なものの染み込んでいるこの講義を読んで大きなショックを受け」、「ハイデッガーとハイデッガーに対 して考える」を1953年7月25日フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙上に発表し、「この運動の内的真理と偉大さ」という文中での表現に ついて注釈も序文での説明もないまま刊行したハイデッガーを「ファシスト的知性」と非難し、「数百万人の人間に対する、今日我々みなが知っている計画的な 殺人も、運命的な迷誤として存在史的に理解することができるというのだろうか。それは帰責能力をもって殺人を行った人々の実際の犯罪ではないのか。それに 対しては、一つの民族全体が良心の呵責を感じねばならぬのではないのか」と質問した。
1953 1927年の初版以来『存在と時間』の冒頭には「上巻」の文字
があったが、ハイデッガーは1953年の第7版からこれを削除。
1967 7月24日、詩人パウル・ツェランがフライブルク大学で朗読会を開き、ハイデッガーも聴衆としており、翌日7月25日、トートナウベ ルクのハイデッガー山荘を訪れた[371]。ツェランから詩を送られたハイデッガーは1968年1月30日付礼状書簡で「私は幾つかのことはまだ、いつの 日か、無-言を脱して対話に入れるものと思っています」と書いた[372]。1967年、ハンナ・アレントがハイデッガーを訪問。
1969 ハンナ・アレントが夫ハインリヒ・ブリューヒャーとハイデッガーを訪問し、それからは毎年のようにハイデッガー宅を訪問する
1976 5月26日死去
1987 Heidegger y el Nazismo, でヨーロッパで大スキャンダルになる。ガダマーやデリダは、ファリアスのハイデガーの読みを批判することで批判し、ハイデガーの反ユダヤ主義はすでに知ら れて問題にならずとした。ハイデガーを生粋のファシストとしたい派と、ハイデガーの哲学上のゆるぎない業績と、ハイデガーの「世俗的で矮小な」アイヒマン 的なナチへ関与には関心のない「哲学ユートピア」派に、無残にも別れてしまった。ハイデガーの詳細な伝記を書いたザフランスキーも、擁護派に回っている。 それぐらい、ハイデガーの思想は偉大ということか?
1989 マールブルク大学と同時期にやはりハイデッガーを招聘しようとしていたゲッティンゲン大学のゲオルク・ミッシュに提出した同内容の論 考が発見され、その内容から「ナトルプ報告」が『存在と時間』の初期草稿であるとする推測の正しかったことが証明。
2013 ヴィットリオ・クロスターマン社全集94-96巻に掲載されたハイデッガーが1930年代から1970年代にかけて書き続けた手稿
「黒ノート」に反ユダヤ主義についての箇所があることが問題に。ジャン=リュック・ナンシーのみが、一番まともで、ハイデガーのナチス協力とナチスへの信
奉はゆるぎないもので、誰も知っていたことで「ハイデッガーが反ユダヤ主義に加担したことは1950年代から知られていたし、ハイデッガーの限界とは我々
の限界でもあると論じた」.
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Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099
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