プラグマティズム
pragmatism
解説:池田光穂
プラグマティック・マクシム(プラグマティズムの金言) ——チャールズ・サンダー・パースの思想をウィリアム・ジェイムズ(1960:37; William James 1907:46-47)がまとめたもの。
「ある対象について私たちの考えを完全に明晰にするために、その対象が実際どんな結果をふくんでいるか、——いかなる感覚がその対象から期 待されるか、そしていかなる反応を用意しなければならないか、を考えさえすればよい。こうした結果がすぐに生じるものであろうと、ずっと後におこるもので あろうと、こうした結果について私たちの概念が、その対象に関する私たちの概念のすべてである」(魚津 2006:58)
"A glance at the history of the idea will show you still better
what pragmatism means. The term is derived from the same Greek word [pi
rho alpha gamma mu alpha], meaning action, from which our words
'practice' and 'practical' come. It was first introduced into
philosophy by Mr. Charles Peirce in 1878. In an article entitled 'How
to Make Our Ideas Clear,' in the 'Popular Science Monthly' for January
of that year [Footnote: Translated in the Revue Philosophique for
January, 1879 (vol. vii).] Mr. Peirce, after pointing out that our
beliefs are really rules for action, said that to develope a thought's
meaning, we need only determine what conduct it is fitted to produce:
that conduct is for us its sole significance. And the tangible fact at
the root of all our thought-distinctions, however subtle, is that there
is no one of them so fine as to consist in anything but a possible
difference of practice. To attain
perfect clearness in our thoughts of an object, then, we need only
consider what conceivable effects of a practical kind the object may
involve—what sensations we are to expect from it, and what reactions we
must prepare. Our conception of these effects, whether immediate or
remote, is then for us the whole of our conception of the object, so
far as that conception has positive significance at all." -
source:
魚津郁夫(2006:13)は『プラグマティズムの思想』のなかで、時間を越えた3名のプラグマティストに共通する非常に「実用主義的」——プ ラグマティズムの翻訳用語 としてこのような表現があった—な発想を次のように書いている。
1)ウィリアム・ジェイムズは、それがどんな観念であっても、それを信じることが宗教的な慰めを得るのであれば「その場かぎりにおいて」こ れを心理として認めなければならない。そのような真理観を提供する。
2)リチャード・ローティは、多元主義からそれぞれの民族の人たちは自分たちの文化を基礎に生活しながら「強制なき合意」を目指した対話を めざすべきだとする。そのような実践観を提供する。
3)チャールズ・サンダー・パースは、プラグマティズムのなかに可謬主義(かびゅう・しゅぎ)の伝統を見出した。可謬(かびゅ)とは「誤り をおこす可能性」のことであるので、この考え方(=可謬主義)は、我々の認識能力には、限界があるために、誤謬(ごびゅう=誤りのこと)を可能性をもって いるという、プラグマティズム独特の認識論をもっていることを指摘した。
ここで、ジェイムズは……、ローティだと……、パースは……と、いうふうに試験を覚えるように「プラグマティズム」を分かろうとすること自体 が、じつは「最もプラグマティックではないのだ!」ここで、プラグマティックであることは、プラグマティックに、今、ここでなんとか、理解しようとする努力のことであり、明日になれば修正 が必要になるかもしれないが、いまわかる情報から、「プラグマティズム」を暫定的に理解してしまうことなのだ。
この3人3様のプラグマティズムの指摘は、僕たちは一見バラバラのように思えてしまう。しかし、プラグマティストならば、ここで諦めない。3つ の間に、共通しているものがある、という僕のことばを信用して、さらに思考を続けることができる。つまり、自分の理解の範囲で、整理し理解した範囲で、プ ラグマティズムをとりあえず定義しておく。そうすれば、プラグマ ティズムとは、あることをそうであると信じて、論理的にもまた経験的にも矛盾をおこさない説明体系を、その時点でのベストなものとして理解する態度の ことである。また、プラグマティズムは、別の推論や他の情報が提供されて、そのことについて自分で考え納得のいく説明が与えられたら「いつでも思考を現在持ち得る最良 の考え方にであるものに修正してよい」という考え方でもある。
このような発想の特徴は、経験主義的で、また体系化に対する信頼をおかない発想である。『アメリカの民主政治』においてトクヴィルは、アメリカ
の哲学には体系的な思考が占めていることは僅かであると指摘しているが、アメリカで生まれたプラグマティズムには、確かに体系化に対する警戒心に満ちてい
る。
なかなか、便利な考え方だが、プラグマティズムにもいくつか落とし穴がある。パースの可謬主義に基づいて「いつでも修正をおこなうことに吝かで はない」というやり方は、その落とし穴を回避する一つの方法である。ただし、可謬主義も、乗り捨ててしまった考え方に対する批判的反省がないと、また再度 同じ誤りを犯す可能性がある。プラグマティズムは、いま信じているもの(n)がうまくいかなかった場合、修正(n+1)を容易に受け入れる考え方だが、他 方で、それまでの考え方(n-1)がなぜそのような誤りであったのかについて、吟味するという思考的態度がどうしても(現状肯定あるいは未来志向のため に)欠如気味になる。プラグマティズムにみられる、帰結主義(consequentialism)も、なぜ今の状態がうまくいっているのか、何も問題がな い時には、その思索の探究を現状満足に留めてしまう可能性がある——現状満足が良いか悪いかは時と場合による。帰結主義は、行為の道徳的判断において、そ の行為がうむ結果(=帰結)を考慮に入れるたちばである。先のジェイムズの「宗教的な慰め」がその帰結だからである。
また、可謬主義を思考の方法に組み込んでいることは、このような探究をつみかさねていけば、リアルな認識に到達できるという信念が、その背景に
あるとも考えることができる。それが実在説(realism)であり、リアルなもの導かれていずれ共通した結論に到達できるという信念である。しかし、そ
れは探究によって証明できるのではなく、プラグマティズムがもつ探究の前提である。このリアリズムは、究極という想定を素朴に信じるので、揺るぎのない超
越論的なもの(=神や真理)などを容易に実在として内包してしまうという論理上の特色——Transcendentalism。このリアリズムは、先に指
摘したように体系性を持ちにくいために、プラグマティズムには「直観(intuition)」を重んじる知的伝統とも関連している。
その意味でプラグマティズムとよく似ているが、若干異なる点で、まぎらわしいのが功利主義(utilirarianism, ユーティリタリアニズム)で ある。後者は、歴史的にはより古くイギリスのベンサムやJ・S・ミルのことをさす。
プラグマティズムは、問題解決に取り組む姿勢よりも、いつもどれがよいだろうかという解釈に陥る可能性を批判する立場もある。
「アメリカのプラ グマティズムは、プラトンによって開始された西洋哲学における対話でくりかえし議論された諸問題への解決を提起しようとする哲学的伝統に属するというより も、むしろ、ある特定 の歴史的瞬間におけるアメリカの自己弁明を試みるための、たえまのない文化的批評ないし解釈群なのである」——コーネル・ウェスト『哲学を回避するアメリ カ知識人』(2014:15)
ユタ大学で講演するコーネル・ウエスト(2008年)
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文献